雪うさぎの少女たち
あの冬の日を境に祐一は名雪と付き合い始めた。
だが……
普通の恋人同士と違う点は、ほとんど同棲していると同じような環境であるということだ。
近すぎる名雪との距離が逆に面倒くさくなる。
名雪と一緒にいると心が安らいでいたのに、たまにそんな風に思えることがある。
今回もそれと同じだった。今回の喧嘩も――
「祐一なんて大っ嫌い! わたしの気持ちなんて全然知らないくせに!」
「そういうお前だって俺のこと考えたことあるのかよ!」
などとはいってはいたが、原因はどうということはない。本当に些細なことなのだ。
水瀬家に居づらくなった祐一は家を飛び出している、というわけだ。
とはいえ、一日目ではある。
溜息をつく。
何故ここにきたのだろうか……
眼下に広がる町並みを見下ろしながら、あの大木の切り株に腰をおろした。
(何故ここにきたのだろう……俺は……)
「あの……ここで何しているんですか?」
いきなりかけられた声に俺は思わず振り向いた。
そこには真っ白な雪化粧をした雪原と木々が見えるだけで何もなかった。
悪い冗談のように思えてイライラしながら正面に向き直――
「わぁっ!?」
目の前に前髪で顔を隠しながら雪を被っている少女が現れたせいだ。
立ち上がりかけたところを足を滑らせて腰を抜かしたかのように転倒し、さらには頭を打ったのか俺はそのまま気を失ってしまった。
気がつくと祐一は横になって眠っていた。
何か夢を見ていたような気がする。そんなぼんやりとした意識の中で目を覚ました。
体は冷たいのに、頭は何故か冷たくはなかった。
「あ、あの…………」
戸惑いがちな声が聞こえてくる。
「あれ……?」
目を開けて、彼は凍ってしまった。
「ごめんなさい、まさかそんなに驚かれるとは思わなかったので……」
「え……あ……」
上手く言葉にならない。
彼女に膝枕をされているということにようやく気づいた祐一は、逃げ出すように彼女から飛びのいた。
「あ……ごめんなさい……」
俯いて呟く彼女の面影が誰かと重なった。
「名雪……?」
我知らず祐一は呟いてしまった。
「え……?」
きょとんとした少女の声音。それでも名雪には似ていない、はきはきした声だった。
「いや、ごめん。俺もあんなに驚いちゃって」
謝りながら不躾とは思いながらも彼女の顔を覗き込んだ。
やっぱり名雪に似ている……
「あの……?」
「………………」
「どうしたんですか?」
「あ……ごめん。ちょっと考え事してたんだ」
「わたし名雪さんって人に似てるんですか?」
瞳に何か傷が浮かんだように見えた。だけど、そう思った次の瞬間には彼女は笑顔になっていた。
笑顔だった。何の屈託もない、純粋な笑顔。だが違和感があった。
それがなんなのかわからない。
「ごめんな」
とりあえず素直に謝ると彼女はぶぅと頬を膨らませた。
「似てるんですか?」
重ねるようにして聞いて来る。
「ああ。にてる」
「そうなんだ……」
少し遠い目をして彼女はいった。
それから小さな間を置いて、彼女は立ち上がった。
「わたしは水無瀬深雪です。よろしく……」
そういって右手を差し出してくる。
祐一も倣って
「相沢祐一だ。よろしくな」
簡単な自己紹介をしながら深雪の手を握った。
「えっと、深雪って呼んでくれると嬉しいです」
ふと気がつくと顔を少し赤らめて俯いてしまっている。
慌てて手を離したと思わせないように、ゆっくり指を解きながら深雪の手を離した。
「俺のことも祐一でいいぞ」
とりあえずそう返してやると、彼女は大きく元気に頷いた。
本当に子供のように素直なこだ。
俺は率直にそんな感想を持った。
「そういえば、名雪の苗字も水瀬っていうんだぜ?」
俺は苦笑するようにそういった。
彼女もかすかにほほえんでその場にしゃがみこむ。
真っ白な雪の絨毯に指をうずめる。
それから、すらすらと深雪は字を書いていった。
そこには『水無瀬』とかかれていた。『水無瀬深雪』と。
「わたしのみなせはこっちの水無瀬なんですよ」
にっこりと子供が悪戯を解き明かすような笑顔で深雪がいう。
祐一も微笑み返して彼女の隣にしゃがんで『相沢祐一』と綴った。
「それで……」
ついさっきの水瀬という綴りでみせてやると、彼女はにっこりと笑った。
「祐一さんって名雪さんの子と話すときなんか楽しそうなのに辛そうな目しますね」
「……え?」
「なんでもないです」
笑って深雪は切り株に腰をかけなおした。
祐一もそこに腰を下ろす。
「祐一さん」
「なんだ?」
「今日、付き合ってくれませんか?」
真摯な目でこちらをのぞきこんでくる。
少し考え込む素振りをしてから彼は頷いた。
数時間後……
二人が歩いているのはこの町の商店街だった。
百花屋にいって二人でパフェを食べた。
ゲーセンにいってもぐら叩きやクレーンゲームをして遊ぶ。
そしてなんとなくだが、祐一はたい焼きを買ってしまった。
少しだけ罪悪感のようなものを覚える。
「ここのたい焼き美味しい……」
本当に幸せそうに笑う。
こんな笑顔を見たのは初めてだった。
しらみつぶしに商店街を歩き回る。
そして出入り口付近で深雪は足を止めて祐一の腕を引っ張った。
「あの店……」
小さな雑貨屋だった。
少し緊張が走る。何か靄が晴れていく前の緊張感のようなものだが……
「ああ、いいぞ」
半ば深雪に引っ張られるように祐一は雑貨屋の中に入っていった。
店内を一通り見て回ってから、もう一度回りだす。
3週目になって祐一に差し出してきたのは一つのビーだまだった。
赤いビー玉。
何か悪い冗談のように思えた。
一年前と八年前の冬の日にこんなことがあったのだ。
いや……
ふと思いとどまる。
本当にこの二つだったか?
「買ってくれないの?」
「ほかのにしたらどうだ?」
「これがいいんです」
どこか意味ありげに祐一に微笑みかける。
「ほんとにこれでいいんだな?」
そんなことをいいながら、20円を渡してやると、子供みたいにお金とビー玉を握り締めてカウンターにもっていった。
雑貨屋を出た後行く当てもなく、またあの丘に戻っていた。
夕方近くになってしまったためあたり一面朱に染まってしまっている。
特に純白に彩られた雪は素直に朱色に光り輝いている。
深雪もそうだった。
切り株の前に座って一生懸命に雪をかためている。
「なにやってるんだ?」
「雪うさぎ作ってるんです」
振り向きすらせずにうさぎ作りに没頭する深雪を見て、俺は苦笑した。
しばらくしてから深雪はポケットの中から二つのビー玉を取り出すと、当社比三倍ほどの雪うさぎの頭にビー玉をつけてやった。
「できた……」
子供みたいに喜ぶ深雪をみて、思わず祐一は微笑んだ。
だが、その笑顔にまだ引っかかる。
何が引っかかるのかよくわからないが……
「祐一さん……」
「なんだ?」
深雪は祐一に向き直って大きく深呼吸して、
「名雪のこと、嫌いになったんですか?」
「…………」
祐一は深雪を見つめ返した。
何をいっているのかよく分からない。
「わたしのこと覚えてないかもしれないけど……」
口調が変わる。
今までの彼女が仮面をかぶっていたかのように。
いや、実際かぶっていたのだろう。
「わたしは覚えてる。祐一さんと名雪のこと」
すべてを見透かしたような瞳で、射るように見つめてくる。
「どういうことなんだ?」
わけがわからない。何も……
笑顔。
すぐに笑顔に戻る。
「祐一さんは名雪のこと考えたことあります? あのこはずっと、祐一さんのこと考えているんですよ。今だって」
「……なっ!?」
血が……頭に上りかける。
それを冷ましたのも深雪だった。
不意打ちをされたかのように深雪に唇を奪われていた。
「この街は夢を見続けてるの。あなたはそれを知っているはず」
意味ありげに深雪は微笑むと祐一からすっと一歩だけ離れた。
「名雪を拒絶する理由。
――そんなもの、最初からないんじゃないの?」
「え……?」
間の抜けた祐一の声を楽しむかのように、深雪は間を置いてから続ける。
「祐一さんはね。多分……」
いいかけて首を振る。
「それは貴方が自分で気づくべきね。そうでなければ意味はないもの」
悪戯っぽく微笑んで見せると深雪は切り株に腰をかけた。
「考えなさい。気づくまで待っててあげるから」
そういって深雪は目を閉じた――――
中編に続く......